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愛知歴史探訪 武田信玄編🐯

みなさん、こんにちは。

 

愛知歴史探訪のコーナーがやってまいりました。

今日はご存知、武田信玄です。

 

信長、家康を差し置いて、なぜ武田信玄をやるかというと、

これは信玄を先にやったほうが、話の流れが良いということにつきます。

 

信長が桶狭間の戦いで今川を破ると、戦国のパワーバランスが一気に変動しました。

 

当時、甲斐の武田と言えば、戦国一と恐れられた武将です。

上杉謙信とまみえた川中島の戦いは、あまりにも有名ですが、

信長と武田の仲というのは、当時、それほど悪いものではありませんでした。

 

しかし、信長と将軍 足利義照との関係が悪化すると、足利義照は信長包囲網を築き、

それに加わった信玄は、打倒 信長を掲げ、静岡へと侵攻したのです。

 

浜松にある三方ヶ原というところで、家康と戦い、家康は敗走。

命からがら逃げかえった家康は、ここでお漏らしをしていまい、それを絵師に描かせると言う話は、

家康編でも書きましたね

 

そののち、今の愛知県新城市にある野田城というところに信玄は攻め込みます。

 

その野田城の跡は、山の中の道を進んでいった先にあります。

看板が掲げられていましたが、ここから山を分け入った先に

野田城跡がありました。

雨の日に行ったので、遭難するかと思いましたよ。。。

 

野田城跡には、こんな看板がたっています。

信玄の狙撃された場所・・・・

 

野田城は、小さな城でしたが、地形に恵まれた天然の要塞で、信玄も落とすのに苦労をしました。

信玄はこのとき、かなり病状が悪く、野田城を陥落させたものの、家康のもとまで一気に攻め切ることができず

引き返しています。

 

このあと、病状が悪化し、信玄は亡くなったとされていますが、とある書物には、

この野田城にいるときに、笛の音に誘われて出てきた信玄が狙撃されたとの表記があるそうです。

その狙撃された傷が響き、病状が悪化したということになっているのですが……

 

新城市にある歴史博物館には「信玄砲」という名前でこれが保存されています。

本当かどうかわかりませんが、こういったところも歴史をさぐっていく上で面白いところだと思います。

 

ところで。

武田信玄の残した言葉に、こういうものがあります。

 

「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」

 

どんなに堅牢な城であっても、人が居てそれが保たれている。

適材適所で個人の力を見極め配置することで、人は石垣となり堀となる。

そして、それは人を信頼してこそ、尽くしてくれるものだというのが、信玄の考えだそうです。

 

我々タクシー会社のような「労働集約産業」は、この信玄の残したことばを胸に「人」を育ててゆかねばなりません。

 

しかし、今までタクシー会社を経営してきた方々は、こういった考えのもとで経営してきたか

私には甚だ疑問です。

 

私は、このブログを書きながら、都タクシーだけは、せめて、信玄の言葉を守り

運転手に、いや、社員全員に接するようにしようと心に誓った今日この頃です。

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