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愛知歴史探訪 鳥居強右衛門編
こんにちは。都タクシーブログ担当のノロです。
まあ、何と言いますか、このブログのタイトルは悩みました。
本来なら、「信長編7」にしたかったところなのですが、
信長編7を先延ばしにしてでも、語らなければならないひとりの武将がおります。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)その人です。
だれ??と思われるかもしれませんが、長篠の戦いを語る上で、どうしても外せない方なので、
今回は、鳥居強右衛門編とさせていただきます。
以前の歴史探訪「武田信玄編」でお話したように、信玄は三河攻略のさなか倒れ、武田軍は一度撤退します。
これを好機と見、家康はふたたび、三河や遠江の手中にせんとのりだします。
しかしながら、またもや、武田軍は信玄の息子である勝頼が大将となり、三河攻略へと乗り出すのです。
詳しい戦況まで書いていると、日が暮れますので省きますが、この激戦地となったのが、愛知県の東部に位置する長篠城です。
長篠城跡には資料館が残されていますが、
この資料館に非常にインパクトのある人が飾られています。
裸ではりつけにされているその人、それが鳥居強右衛門(とりいすねえもん)です。
長篠城を攻め落とさんと武田軍が取り囲むなか、鳥居強右衛門は援軍の有無を確かめるため
家康のいる岡崎城へと向かうことを名乗りでます。
長篠から岡崎城までは直線距離でおよそ40km。
それを敵にみつからないよう、川を泳ぎながらいったというのですから、すごいことです。
当時、岡崎城には徳川軍と同盟を組む、信長も来ており、長篠へと出兵する準備をしていました。
岡崎城に強い物狂いでたどり着いた鳥居強右衛門はこれを喜び、休みもろくに取らぬまま、「援軍あり」の知らせを一刻も早くするため、
再び、長篠城へと向かうのですが、この途中で、武田軍に捕らえられてしまいます。
武田軍は捕まえた鳥居強右衛門に「長篠城には援軍がこないから、あきらめて武田の軍門へくだれ」と報告をするようにと促しますが、
強右衛門は、長篠城に向かい、大きな声で援軍がくるからあと少し粘るよう訴えます。
これに怒った武田は、鳥居強右衛門をはりつけにしたのです。
……と、そういう逸話が残っているのです。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、この地方の方々に愛されているようで、ゆるキャラにもなっています。
この話は、「戦国の走れメロス」なんて呼ばれ方もしています。実際、大正時代までは教科書にも載っていたようで、ひろく知られた話だったといいます。
しかし、現在では、歴史好きしかしらない話になってしまっています。
ですが、こういった話こそ、大人が子供に語るべき話であると私は思います。
今回はまわる時間がありませんでしたが、鳥居強右衛門の磔の碑や、お墓(織田信長がたてたと言われています)も残されていますので、
これを見て、興味をもった方は、ぜひ行ってみてください。