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愛知歴史探訪 秀吉編3

こんにちは。都タクシーブログ担当のノロです。

 

いろいろな歴史を調べていると、NHKの某番組ではないですが、

歴史の転換点は、ここだったなというところがあります。

 

特に、その道で偉大な功績を残した人というのは、よく「〇〇以前、〇〇以後」なんて言われ方をします。

 

例えば、クラシック音楽の世界では、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンがそれで、

「ベートーベン以前、ベートーベン以後」という言われ方をします。

 

 

日本の戦国史においては織田信長がその起点となっていることは間違いないと思います。

信長は、日本史的にそれほど大きな自分物でした。

 

 

このブログでも、長篠の戦いまではご紹介しましたが、その後、安土城を建て

天下にあと一歩というところで、信長は明智光秀に本能寺にて討たれてしまいます。

 

そして、その明智光秀も、山崎の戦いで羽柴秀吉に討たれるわけですが、

その後、信長の跡目争いがこの愛知県で起こります。

 

それが、有名な清州会議です。

清洲城については、こちらのブログでも触れていますので、ご一読ください。

 

ひかりタクシーのほど近く、清州城で行われたこの会議には

織田家の家臣たちがあつまります。

 

このとき、秀吉が推したのが「三法師」という名の信長の孫でした。

このとき、わずか三歳だったと言われています。

 

このあたり、秀吉のいろいろな思惑が透けて見えるわけですが。

 

これに納得いかなかったのが、織田信孝。信長の三男です。

 

織田家の重臣であった柴田勝家と手を組み、秀吉に対抗するのですが、

勝家は賤ケ岳の戦いで、秀吉に敗れ自害。

 

信孝は追い詰められたのち、秀吉・そして次男の織田信勝の命により

愛知県、知多半島の野間というところで、自害することになるのです。

 

私のブログを読んでくださっている方は、ここで、あれ?と思われたかもしれませんが、

こちらの「野間」というところは、以前、源頼朝編でも紹介しており

頼朝の父、義朝が部下に裏切られて亡くなった場所です。

 

実は、その源義朝公のお墓の近くに、織田信孝のお墓もあるのです。

 

 

信孝は、当然、この場所が源義朝が亡くなった場所だということを知っており

最後にこのような句を残したと言われています。

 

昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

 

羽柴筑前というのは、秀吉のこと。

自分の腹を十字に切り裂き、内臓を自ら取り出してこういったと

言われていますので、そうとう、秀吉を恨んで死んだのがわかります。

 

江と言い、信孝と言い、秀吉周辺では、少し暗い話が続きますね。

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