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愛知歴史探訪 源頼朝編2
こんにちは。都タクシーブログ担当のノロです。
NHKの大河が放映している間に、なんとか源頼朝編の2をお届けしたいと思っていたのですが、
ようやくそれが叶いました。
この場所のことは、以前から把握していたのですが、ちょっと遠いのでなかなか行く機会に恵ませませんでした。
それが、知多半島のさきの方、美浜町というところです。
鶴林山無量寿院大御堂寺
というお寺です。地元の人には野間大坊と呼ばれています。
知多半島の先で行きにくいうえに、田んぼに囲まれていて、なかなかわかりにくい場所にありますが、
大きなお寺で、駐車場も広々しています。
こちらのお寺は、本当になかなかと興味深いお寺です。
実はこちらには、源頼朝の御父上である、源義朝さんのお墓があります。
それがこちらです。
なかなか不気味なお墓です。
塔の周りにたくさんあるのは、木刀です。こちらに願い事を書いて納めると願いが叶うと言われているそうです。
何故、木刀が……?なぜ、頼朝の父親のお墓が……?となりますよね。
それが、立札にかいてありました。
時は1157年、平治の乱から敗走してきた源義朝がこの地にたどり着きます。なぜ、ここに来たかというと、
随伴していた部下の舅である長田忠致という方を頼ってのことだそうです。
ところが、この長田という人が恩賞目当てに裏切り、源義朝公の入浴中に殺してしまうのです。
この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされ、それで、木刀を納めてお祈りするようなのです。
こののち、その首をこの敷地にある池で洗ったとされていて、昔から、国に異変があるときには
その池が赤く染まるという「血の池」と呼ばれる場所も敷地内に存在しています。
ちょっと怖いですよね。
こちらのお寺の敷地は大きくて、本殿のほかにも、
客殿という建物があります。
こちらに祀られている地蔵は、
伊豆の蛭が小島に流された頼朝の念持仏で、平清盛の継母の池禅尼より賜ったものだそうです。
このお地蔵様を拝んで拝んで拝み抜いた頼朝公は、のちに鎌倉に幕府を開くことになります。
さて、そういうことなので、こちらのお寺は、源氏や地蔵にまつわるものが多いです。絵馬や、おみくじもこうなっています。
ちょっと恐ろしいお寺とは思えないほど可愛いですよね。
ところで、源頼朝は、父なきあと、鎌倉にた幕府を開き、征夷大将軍になるわけですが、
そのとき、父親を殺した長田忠致は、「許してください」と頼朝に謝りにいきます。
それをよりともは、「良い働きをすれば、美濃・尾張をくれてやる」と言い、
長田忠致は一所懸命はたらいたそうなのですが、
頼朝は、「よし、身の終わりをくれてやる」といい、父の墓の近くで、磔にしたという逸話がのこっています。
その磔の松と呼ばれるところが、野間大坊の近くに残されています。
残念ながら、大雨の降った翌日でして、グラウンドコンディションがよくなく、
なくなくこれ以上の道を諦めました。
本当は、もう一度行って、写真を撮りたかったところですが、
なかなかなと遠隔地で、おいそれと行けるところではないので、簡便してください。
最近のブログで、知多の内容がちょっと多いのは、このときついでに周ったからです。
遠隔地にいったのだから、せっかくなので、3回分くらいのネタは書いてやろうというわけです。
私は、長田忠致のように、こんなに一所懸命ブログを書いても、それの為に出かけても
給料があがるわけでも、ましてや必要経費が会社からでるわけでもありませんです。
せめて、このブログを読んでいる人が、入社していただき、
ひいては、私の給料が上がれば良いなと、太刀を納めながら
源義朝公のお墓に祈ったとか祈ってないとか……。その編は謎にしておきましょう。