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愛知歴史探訪 家康編3
こんにちは。都タクシーブログ担当のノロです。
毎日少しずつ暖かくなってきました。
寒いとみなさんの出足が鈍るので、暖かいほうが良いかと思うのですが、
暖かいなら暖かいで、「タクシー使わず歩こうかな」という気分になってしまっても困ります。
なんというか、難しいです。
私がこのブログを担当するようになって、いろんな場所へと出かけ写真を撮ってきているわけですが、
やはり、寒いより暖かいほうがありがたいです。
ただ、神社仏閣、お城へと出かけることが多い中、どうしても階段が多くなります。
こうなると、寒い方がいいですよね。暖かいのはつらいです。汗をかきます。
なんというか、難しいです。
さて、そんなことは置いておいて、家康編の3です。
家康は三河の人ですが、この名古屋にも多くゆかりの地があります。
前回での予告通り、今回ではそれをご紹介します。
名古屋でゆかりの地が多いと言っても、家康は、名古屋に良い思い出がなかったのではと思っております。
というのも、幼少期、名古屋で過ごした時代は、言わば織田家の人質としてだったからです。
家康は6歳のとき、人質として今川家のいる静岡に人質として出されるところでした。
ところが、家康の養母の父である戸田康光が織田と通じており、織田の人質として名古屋へ連れてこられました。
その時に住んでいたのが、現在の熱田神宮の南にある伝馬町に居を構える、加藤図書助順盛の邸宅でした。
以前は、邸宅跡の碑と立札があったのですが、現在では立札が残るのみとなっています。
住宅地の非常にわかりにくいところにあるので、訪れる際にはご注意を。
さらに、家康はそのあとに、以前、こちらのブログでも紹介した
織田家の菩提寺である万松寺でも生活をしています。
信長とは、このときに出会っているという説がありますが、
(私が幼少のときに読んだ、信長の伝記漫画でもたしかにこのとき出会っていました)
それを示す証拠はでてきてはいないそうです。
ですが、私としては、出会っていてほしいところです。
来年の大河ドラマでは、家康の幼少期をどのように描いているかはわかりませんが、このあたりをどう描くのかも面白いかもしれません。
そしてこのあと、今川家が現在の愛知県安城市に攻め入り、信長の異母兄である織田信広が人質となってしまいます。
織田と今川は、家康と信広の人質交換を行うこととなります。家康が織田家の人質となり2年後のことと言うので、
家康は8歳のときとなります。
それが行われたのが、現在の名古屋市南区にあります、
笠寺観音です。
敷地内には、人質交換の石碑が建てられています。
実は、この笠寺観音とその付近には、歴史上の超有名人にして、大スターにゆかりがある場所です。
そのことについては、また、いずれ書きたいと思います。
名古屋で家康の足跡を足早にたどりましたが、
家康が幼少期に過ごした名古屋は、人質として過ごした土地であり、
辛い思い出であったと思われます。
しかしながら、家康は江戸幕府を開いた後、
人質時代を過ごした加藤家には土地を与えて感謝の意を示したそうです。
辛い時でも感謝の意を忘れない。そういうところは見習わなければなりませんね。