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愛知歴史探訪 今川義元編
こんにちは。都タクシーのノロです。
久しぶりの歴史探訪です。今日は今川義元を取り扱ってみようかと思います。
我々、愛知県民、名古屋市民からすると、今川義元という戦国武将は、
ただただ「信長に負けた人」という印象なのですが、
もちろんそんなことはなく、海道一の弓取りと言われ、
内政にも外交にも優れた人でした。
絶賛放映中の大河ドラマ「どうする家康」でも今川義元は登場し、まさに
その第一話は、桶狭間の戦いから始まります。
有名な桶狭間の戦いは、織田軍vs今川軍の戦いで(こちらのブログでも取り扱ってます)
このとき今川の人質だった家康は、もちろん、今川軍でした。
家康は先鋒をまかされ、激戦区である大高城に兵糧入れを行います。
大変困難な役目を家康は見事、成功させます。
これに油断したのか、進軍の休憩中に織田軍の奇襲にあい、
今川義元は討ち取られてしまいます。
その首は、しばらく清須城のそばで晒し首になっていたそうです。
そして、それを伴うために今川塚を築いたと言われています。
その場所が私有地であったために、平成の世になって、須ヶ口にあるお寺にうつされました。
ひかり交通から10分ほど車で行った場所にある小さなお寺です。
家康の四男である、松平忠吉が開いたお寺といわれているそうです。
境内の中に、今川塚があります。
また、この須ヶ口から遠く離れた、愛知県西尾市の東向寺というお寺には
今川義元の首塚があります。
当時の鳴海城城主、今川家の岡部元信が、晒されている首を
鳴海城と引き換えに返却してもらい、こちらに塚を作ったと言われています。
今川義元の言葉に、こういうものがあります。
昨日なし 明日またしらぬ人はただ 今日のうちこそ命なりけれ
昨日のことも覚えておらず、明日のこともわからないような人は、今日なくなるだろうという意味です。
昨日のことをしっかりと反省し、
明日からの予定をしっかりとたてて行動するよう
社員の方々にも教訓にしてもらおうと思う、とある三月の午後でした。